ray , self produce diary

思ったことを他人が読めるように書く練習。

2020

first

忘れようとしても、ふとした瞬間に突然思い出される痛み

一度考えて、ああもう傷つく必要はないと思って落ち着くけれど、しばらく経つとまた思い出してじくじく痛む

喪失

何かで満たされるまでは、心の隙間にたまに気づいて、傷ついて、きっとこの繰り返しなんだろうと思う

いつもの、雑踏を抜けた人気のない道を歩く

ふと見上げたらあまりに空が遠く澄み渡って綺麗で、視界も心も開けた気がした

裏道のつきあたり、1本の木から透ける空、風で木々が揺れる、静寂、世界にはわたしひとりだった、楽園

どこにでもゆけると思った

隙間はいつか満たされると知った

next

人と話すことを避けて、

傷つけたかもと思い悩むくらいなら

ちょっと無理してでも疲れてでも頑張って喋ればいい

話せたらきっと私は満足するんだと思う 私頑張ったって

そのほうが健やかだ

他人より優先したい自分らしさはそこにはないんだろう

ひとの心の隙間に愛を注ぎ

自分の心を自分で満たす術を学ぼう

視野を広く、ひとにやさしく、自分をほめる

2020

働かないアリ理論

恋愛は感情か理論か、という話を昔した。

今思うのは、やっぱり理論ではないかということだ。

 

具体例で考えてみる。

 

ある女の子が「デートの約束はいつも私からで、彼から連絡が来ることはほぼない。彼は私のことを好きじゃないのか?」と悩んでいたとする。

実際、同じようなことを悩んでいる子は多いように思う。

 

その女の子の中では「好き→会いたいと思う→会う約束をするために連絡をする」という構造ができていて、「連絡がこない→会いたいと思っていない→好きではない」となっているわけだ。

しかしどうだろう。以下、考えられる彼についてパターンを2つ挙げてみる。

 

パターン①:「好き→会いたいと思う」ではない。

好きだから会いたいと思う人がすべてではない。好きだから会いたいというのは女の子、彼女側の価値観でしかないのだ。

とは言っても、世間的には好き=会いたい派が多い気もする。そうなると、もしかして少数かもしれないが、好きでも会わなくていい人はいる。

 

パターン②:「会いたいと思う→連絡をする」ではない。

こちらのパターンの方が多いかもしれない。

仮に好きで会いたいと思う人であっても、会いたいと思う頻度こそ人による。今回の例で、彼女が3日に1回会いたい人で、彼氏が7日に1回会いたい人であれば、連絡するのが彼女からになるのは当然のことだ。閾値の違いと言ってもいい。

 

つまり、彼氏からの連絡が欲しいならば、彼女の方から連絡しなければいいのだ。そうすれば、彼氏が会いたいと思ったタイミングで連絡が来るのではないだろうか。

その頻度が彼女にとってあまりに少ないものであるなら、今まで通り、彼女が会いたいと思ったタイミングで連絡すればいい。そこで彼氏に連絡を強要するのはお門違いなのである。

 

会う頻度が彼氏にとって多いものであるなら、いずれ歪みが生じるだろう。そうなったら、あるいはそうなる前に、二人にとって無理のない会う頻度を探ってみればいい。

どうしてもすり合わせられないなら、それはつき合うということ自体を考えなければならないかもしれない。

 

このように、連絡をくれない彼の行動を「好きじゃないから連絡をくれないんだ」と感情論で考えるより、「私の方が会いたいと思う頻度が多いから、私から連絡してしまうんだ(=結果として、彼からの連絡が少ないんだ)」と理論的に考えた方が断然、健康的で合理的な思考だ。

 

そういった感覚を合わせに行くのではなく、何も考えずに合う人とつき合うのが一番いいという説もある。はなから会う頻度なり何なり感覚が合う人とつき合う、ということだ。その場合、結局は恋愛は感情ということになるけれど、完全に感覚が一致する人と出会える可能性はそう高くないのではないのだろうか。その場合、恋愛は理論で行った方がうまくいくと考えられる。

インスピレーション

風の温度も、音も、全てがパズルのピースの様にピタリと当てはまる。


この日に、このタイミングで、君とあの場所で会ったことは運命だったとさえ思う。


全部、完成されていた。


何もかもやりたい。やるべきだ。私にしかできないことはある。需要にいち早く応えるべきだ。今しかない。


風のように次から次へと背中を押される。勝手に1歩が出てしまうほど、ぐいぐいと。


ときめきと、ドキドキ、ワクワクを大切にしたい。心が向かうほうへ進んでいきたい。この感性を大事にしたい。

きょうを磨く

今まで、何か旅行や遊びの予定を立てる時、初めに自分がその話の中にいたのなら、当然そのメンバーの中で予定をすり合わせるものだと思っていた。誰かの予定が合わなくなったら、当然、日程を変えるものだと思っていた。

 

ところが大人になるとそうでもないらしい。

全員の日程を合わせる難しさを知るからか、行ける人で行くのが常らしい。

 

それを初めて体感した時は、受け止められずに、除け者にされた気持ちに耐えられなくて日程を変えられないかゴネた。何ならつい最近もゴネた。

けれど、こう二度三度四度同じようなことがあると、流石にこれは世の常なのだと知る。

当然、合わせに行くのは自分の方だった。行けないのはわたしが予定の中からその予定を行かないと選んだ結果なのだった。

 

最初から全員の予定をすり合わせていないわけではない、すり合わせには優先順位もあるし、限界もある。その結果、どうしようもなかったのだ。

 

その予定にわたしがいないことが平気なのか、わたしの存在価値は、わたしはいなくてもいいのか、そんな風に感じてしまうくらいに、わたしはわたしが好きだし、まわりにも好きでいてほしいのだ。でも、そうでないことが悲しいから、ゴネる。

 

でも思えば、今までで行けない人がいた旅行も、楽しかったじゃないか。いたら絶対に盛り上がる面白い人が行けなかった旅行も、楽しかった。そういうものなのだ。旅行は、一定以上の仲の人となら、誰といっても、大体楽しい。

 

だからまず、わたしに予定を合わせる価値がなかったと思うのはやめよう。

予定というのは、計画した人が日程を決める全権利がある。それが、世の常。予定というのは、大抵多数決で決めるものだ。それも、世の常。

 

余談だけれど、こんな風に自己評価と他者評価の差に悩むのは小学生の頃からずっとだ。未だにそこに差があるのは、自己評価が高くなるほど出来ることが多かったわたしをいつまでたっても越えられないからだ。

そして、いつまでたってもその時の自分のままな気でいるから、できないことの多さを痛感した時に、評価の差に悩むのだ。

 

 

最近、主人公が30代の話をよく読む。

30になった時、わたしには何があるだろう。

何も無かった時、後悔だらけのわたしの人生の中でも最大の後悔をするんだろう。何事も経験と言えたのは、若いうちだけだったと知るんだろう。人生の選択肢も自分の武器もどんどん減っていって、選べないわたしは何を選ぶんだろう。

 

30になっても、大切な人に、社会に、選ばれる人、選べる人、になる為の、武器を身につけよう。多いほうがいい。それが20代のわたしにできること。やりたいことをやるためにやらなければならないこと。

 

昔のわたしを、越えていくんだ。できることを増やしていこう。

まずは、昨日のわたしから。

梅雨の所為:散文

ここ数日何もやる気が起きないし、何も活動的なことをしていない。そんな生産性の無い日々はいつの年でもあったけれど、毎回、受け入れ難い。

 

半年ほど強制的に忙しい日々が続いて、ついに終わり、気が抜けてしまった。

目まぐるしい毎日で、辛い時も山ほどあったけれど、やりたいことをリストアップして、切望しながら日々をやり過ごしていた。

それなのに、終わった瞬間やりたいことすらやらなければならないことに感じてしまう。この差はなんだろう。やりたいことって、それをするにもエネルギーがいるんだろうけれど、わたしってこんなに何もできなかったっけ?

 

わたし、どうなりたいんだろう。

 

幾度となく夢に見た自分がいる。

痩せて、ヘアメイクも服も完璧で、勉強も趣味も全力でやって内面も磨き、行きたいところに行って、やりたいことをやる。キラキラした、雑誌やスタイルブックの中のモデルのようなひと。

 

そして、胸を張って、自信を持って、わたしが好きだったひと、わたしを好きだったひとに会いに行く。

変化で心を掴んで、願わくば振り向かせて……、そして?

わたし、どうしたいんだろう。

 

 

誰かの心の中にいたいのか。

ああ、そうなのかもしれないな。

やる気スイッチ

きっかけは本当に何だっていいんだ。



大抵はかわいい子の、今までのかわいいを更新した、殴りつけられるようにかわいいという感情にさせられる写真を見た時だったりする。


今回はなんとまあ美味しそうなラーメンの写真だった。


ラーメンを食べても美しいひとになりたい。

何も気にせず好きなだけラーメンを食べられる細さになりたい。


よくそんな発想になるものだと思うけれど、ビビッとコンマ1秒でそう結びつき、よし頑張ろうと流れるように感じることが、たまにある。


今までの気だるさを一瞬で越えていく、ゆらぎ。どんなに踏み出そうとしてもできなかった自分の意思に、鶴の一声のように飛んでくる思考回路。


それを、意図的に生み出せれば、こっちのものだ。


自分を奮い立たせたものが何か記録して、分析して、装置を作ってしまえばいい。


いいんだ。

自分を責めなくったって。

ぜんぶ思い通りさ。

晩年思春期の散文

心が動く方へ、
感性が揺さぶられる方へ、
歩いて行ったら良い。

道を見つけただけでは世界は広がらない。
進むからこそ意味がある。

そうすれば、その先に新たな道が出き、
世界はどんどん広がっていくから。


でも、世界を広げて懐の深い人間になって、わたしはどうしたいんだろう?

なりたいわたしになって、人生が楽しくなって、そういえば、人生って何のためにあるんだっけ?

先生に聞いてみたかった。

先生はこの世界を少しでも良くしたいと仰ったけど、わたしは、この世界をどうしたいんだろう。

どうにもできるわけではないかもしれないけど、この世界でどう生きたいんだろう。どこに向かって生きていけばいいんだろう。

仕事を選んで、食べて、寝て、生きて、人を愛して、子どもを産んで、それで?

この世界について考えたいという思いはある。でもそれは、知らないことに意味をもたらしたいという、ただの知識欲なんだろうか。

先人の考えを知りたくなる。
哲学書でも読んでみようか。

うつくしいものをうつくしいと感じる心。
ひとつのものを見て、ひとの数だけ無限に広がる発想。想像力。
そこから生まれる唯一無二の文章。
ただそれを生み出して自己陶酔したい気持ち。

ひとの思考に入り込みたい。
ひとの感性を揺さぶりたい。
わたしによって誰かに影響を与えて、わたしという人間を残したいという気持ち。

自分を残したいというのは、生きた証を残したいというのは、子孫を残したいというのと同じで、生物の本能なんだろうか?

わたし、ただ産まれて誰にも気づかれずに死ぬのは嫌だ。承認欲求が溢れてるだけなのかな。

まだわたしは、自分の限界を知らないでいる。きっと挫折が足りていない。わたしは何にでもなれる、いや、何者かになれると思っている。わたしには人と違う何かがあると信じている。きっと自分が好きなのだ。その価値を他人に認めてほしいのだ。
でも、それだけか?

欲しいものは欲しいし、やりたいことはやりたいし、なりたいものはなりたい。
欲は我慢するのではなく満たすものだ。
(そういう発想が自己中心的な性格を招いているのかもしれない)

やりたいことはやろう。
やりたくないけどやらなければならないこともやろう。
そうでなければやりたいことができなくなる。

やりたいことだけやっている人は社会に適応できない。
やりたいことをするために、やりたくないことを進んでやろう。


意味のないことをそのままで受けとめられない。意味を考えずにいられない。自分なりの答えを出すまで延々と脳内で繰り返される。



わたしが生きるのは、生きたいからだ。
生きていて、楽しいことや幸せなことがたくさんある。つらいことを乗り越えた先に今までよりもできることが増える成長があることも喜びだ。

わたしは、生きたいから生きているけど、でも、選択する余地もなくこの世にヒトとして産まれて社会の一員として生きていくのは、不思議で、あらかじめ決まっている原理を原理として受けとめられなくて、「どうしてこうなった?こうするしかなかった。何のために子孫を残すのか。」と様々な疑問が渦を巻く。

結局考えたって今ここにあるものはこの世界だけだから、ここで自分が満足するように生きていくことがすべてなんだけれど。

他人が読める文章を書くのが目標なのに、散文にも程がある。でも、今日のわたしの思考の整理のために、残します。

いつかきれいにまとめられる日が来たらいい。