ray , self produce diary

思ったことを他人が読めるように書く練習。

きょうを磨く

今まで、何か旅行や遊びの予定を立てる時、初めに自分がその話の中にいたのなら、当然そのメンバーの中で予定をすり合わせるものだと思っていた。誰かの予定が合わなくなったら、当然、日程を変えるものだと思っていた。

 

ところが大人になるとそうでもないらしい。

全員の日程を合わせる難しさを知るからか、行ける人で行くのが常らしい。

 

それを初めて体感した時は、受け止められずに、除け者にされた気持ちに耐えられなくて日程を変えられないかゴネた。何ならつい最近もゴネた。

けれど、こう二度三度四度同じようなことがあると、流石にこれは世の常なのだと知る。

当然、合わせに行くのは自分の方だった。行けないのはわたしが予定の中からその予定を行かないと選んだ結果なのだった。

 

最初から全員の予定をすり合わせていないわけではない、すり合わせには優先順位もあるし、限界もある。その結果、どうしようもなかったのだ。

 

その予定にわたしがいないことが平気なのか、わたしの存在価値は、わたしはいなくてもいいのか、そんな風に感じてしまうくらいに、わたしはわたしが好きだし、まわりにも好きでいてほしいのだ。でも、そうでないことが悲しいから、ゴネる。

 

でも思えば、今までで行けない人がいた旅行も、楽しかったじゃないか。いたら絶対に盛り上がる面白い人が行けなかった旅行も、楽しかった。そういうものなのだ。旅行は、一定以上の仲の人となら、誰といっても、大体楽しい。

 

だからまず、わたしに予定を合わせる価値がなかったと思うのはやめよう。

予定というのは、計画した人が日程を決める全権利がある。それが、世の常。予定というのは、大抵多数決で決めるものだ。それも、世の常。

 

余談だけれど、こんな風に自己評価と他者評価の差に悩むのは小学生の頃からずっとだ。未だにそこに差があるのは、自己評価が高くなるほど出来ることが多かったわたしをいつまでたっても越えられないからだ。

そして、いつまでたってもその時の自分のままな気でいるから、できないことの多さを痛感した時に、評価の差に悩むのだ。

 

 

最近、主人公が30代の話をよく読む。

30になった時、わたしには何があるだろう。

何も無かった時、後悔だらけのわたしの人生の中でも最大の後悔をするんだろう。何事も経験と言えたのは、若いうちだけだったと知るんだろう。人生の選択肢も自分の武器もどんどん減っていって、選べないわたしは何を選ぶんだろう。

 

30になっても、大切な人に、社会に、選ばれる人、選べる人、になる為の、武器を身につけよう。多いほうがいい。それが20代のわたしにできること。やりたいことをやるためにやらなければならないこと。

 

昔のわたしを、越えていくんだ。できることを増やしていこう。

まずは、昨日のわたしから。